考えること
考える、ということは一体なにか?
人が「ちょっと考えてみる」「もっとよく考えなさい」(よく言われる)などといったり、言われたりするとき、具体的にはどのような行為が「考える」なのか?
結論だけを出すことを、考えるとはいわないようだ。
結論に理由をつけるだけでも、不十分。
説得的に人に語れる状態になって、「考えた」となる。
結論と理由から成り立っていない、感想や感じていることを述べたり(叙情)、事実の羅列(叙事)は、「考えた」ということにはならない。(叙情なり、叙事を語るという行為自体の理由付けには考えるという行為があり得る。)
「ユーバーイーツを使ってみたら、案外便利だった。」
「朝6時に起きて7時10分に朝食を食べた」
この発言から、「はぁ、この人はよく考えてるわぁ」とは思わない。
では、結論と理由があればいいのか。
「新宿に行く。なぜなら、紀伊国屋に行きたいからだ。」
これを「考えた」とはいわない。
「予算をください。なぜなら新規顧客の施策実行に必要だからです」
これも「考えた」とはいわない。具体的に説明しろ、となる。
そして、具体的な施策を説明し、なぜその施策である必要があるのか、効果はどの程度か、などと話が進むにつれ、「考える」ことが必要になってくる。
どうやら「考える」という行為は、人を説得するための物語を作ること、といえそうだ。
しかし、人間は一人でも「考える」。
私もよく、一人で考え事をする。
そういうときは、「なんで、〇〇はこうなっているんだろう」「次は何をすべきだろう。」「△△の意味はなんだろう」というような内容であることが多い。
これは、自分自身に対して、説得的な、納得できる物語を作る営みであるといえる。
事実を事実のまま受け入れるのではなく、自分にとって腹落ちするように、言語化する、物語化する行為が、一人の場合の「考える」。
自分と他人を区分せず、人が自他に向けて、あることを説得、納得させるための表現を模索する営みが、「考える」である、ともいえる。
*表現を模索、としたのは、人は言語のみによっては完結しないと思うからである。
説得、納得を必要とする状況というのは、なにかしら重要な局面を迎えているときである。
「新宿に行く。なぜなら紀伊国屋に行くからだ。」
という文に考え(思考)があったとは評価できないのは、内容がどうでもいいからだ。
勝手にどうぞ、という話であり、誰かを説得、納得させる必要がないから、そもそも考えることを必要としない。
これが、例えば、その人が新宿にいくと、特殊なウイルスによってその人が死んでしまう可能性がある、というシリアスな状況にあるならば、「なぜそこまでして紀伊国屋に行きたいの?もっと慎重に考えなさい」となり、考えることが必要になる。
「考える」とは自他を説得、納得させるための準備。
では、考えれば、すべての問題は解決するのか。
考えるときに使う言語、知識、規範、ルール、価値観、考え方、論理的な枠組みは、その人間のオリジナルなものではない。所詮、既にあるものを無意識・意識的に使いまわしているにすぎない。
仮にその人の完全オリジナルななにかがあったとしても、それを他人と共有するための言葉やそれ以外のツールは存在しないはずである。これまでに他人と共有されたことのない何かを表現するには、新しい言語その他の表現方法を発明するよりほかない。それはアートの領域であり、一般人にはあまり関係がない。
ということは、考える、ということは、考えるその人の知識、経験を総動員して、結論と理由を説得的に語る、ということになる。
個人の知識、経験が完全無欠、ということは現実的ではない。
ある程度のところで、人は説得されるし、納得もする。
どこまで考えればいいかは、説得や納得の対象次第である。
そして、説得や納得は、真理とは一致しない。だから詐欺がまかり通る。
考えればすべての問題は解決するのか、と問いを立てたが、広すぎた。
考えれば、自分自身の問題は解決するのか。
この場合、考えることによって自分自身を説得、納得させられるなら解決する。
自分自身を説得、納得させられないような問題に直面したときは、考えることは無意味になる。
しかしそもそも、完全ではない自分の知識経験で、説得、納得できるような問題は大した問題ではないともいえる。また、完全ではない自分の知識経験では、なんともわからない問題については、考える必要がないともいえる。
「だいたい考えてみたけど、最終的にはなんともいえない。」
となったら、それ以上考える必要はないだろう。そして、それでいいと思う。
あとは、実験するしかない。