解像度と過去

写真の解像度は上がる一方であり、江戸時代末期の写真技術と今日のスマホカメラの性能は格段に異なる。

仮に、江戸時代末期からスマホが存在していたとしたら、非常に鮮明な写真が今に残ることになる。この場合、江戸時代末期について、もっと身近に感じるのではないか?

よくテレビなどで有名人の幼い頃の写真が出てくることがある。その人がうまれた年代によって、それは白黒写真であったり、カラーでもアナログだったり、20才程度の人の場合はデジカメで撮られたものだったりする。それらの写真のいわば解像度の違いによって、受ける印象は変る。解像度が低いほど、「昔感」が増す。いわば、解像度は、昔観、ノスタルジー感を演出する装置、技法に思える。

たとえば、今でも昔のカメラで撮影すれば、ノスタルジー感のある写真を取ることができる。スマホでもアプリで加工すれば、同様の演出をすることができる。

そんなことを考えてみると、なんとなくの感覚で、過去というものを捉えているけど、写真などの記録のテクノロジーによって、バイアスが掛かっているのだろうと思えてくる。

今後、一定以上の解像度で出来事が記録され続けるだろう。同時に、人の過去に関する感覚も変化していく。過去と現在がぐっと近づく。過去を切り離しづらくなる。それはよいのか、わるいのか。

 

モラル

電車内で人のスマホ画面を見てはいけない、と思うのだが、見えるときには見てしまう。興味本位で。

ある日、私は電車で横並びの席に座り、スマホのメモアプリで思いついたことを入力していたのだが、その内容が「自由とはなにか。自由は必要か。」というあまりに壮大で恥ずかしい内容なので、隣の人に覗かれたら嫌だなと思い、ふと両隣を軽く見渡すと、左のおばさんは斜め前を男前な表情で見据えていて、右のおじさんは懸命にスマホをいじっていた。いずれも私のスマホには興味なさそう。「人のスマホ画面をのぞき見するような下世話な人は、実際はそんなにいないもんだ」と思いつつ、右隣のおじさんがスマホを膝上くらいにおいていたため、私の目線を少し右斜め下に落とすだけで、用意に画面が見えてしまうのだった。

まず、おじさんはラインをしているということが周辺視野により認識できた。そして、勇気を出してチラと画面にダイレクトに視線を落とすと、おじさんの相手方の文章内に「・・・そのような最低な思想に至るほどに混乱されたのですね。」との記述が見えた。この程度の文章量だと、一秒未満で認識できるものである。いけない!と思い、視線を自分のスマホに戻す。しかし、「最低な思想に至るほどに混乱」したおじさんとはどのような顔をした方なのだろうかと、自分のスマホ画面を鏡のように使い、おじさんの顔を見てみた。60歳位だろうか、さいとうたかお的なダンディな雰囲気を漂わせた劇画調のおじさんだった。ちょいワルブーム以前のちょいワル、旧世代のアズキルーペ的な雰囲気を漂わせていた。元ボクシング協会会長に極めて近い草刈正雄とでもいおうか。ともあれ、「最低な思想に至るほどに混乱」している感じはないし、まともな会社員とかではなさそうだけど、頭が悪そうでもなく、グレーな不動産取引をする程度の悪さを感じるだけであって、なぜ、そのような判定を相手からくらったのか気になった。

そこで、再度おじさんのスマホに目をやると、画面左上に相手の名前の表示がある「元愛人エリカ」と出ていた。(実際は「エリカ」という名ではなかった。念の為。)おそらくアプリはラインで間違いなく、そうだとすると、表示されている名前は、相手方が自分で設定したはずである。相手は自分で「元愛人」という肩書を付したわけである。さて、問題の「最低な思想に至るほどに混乱」という記述以前のメッセージは見えなかったが、おじさんが懸命に遂行している文章が見えた。「あの君が反社会的だと今になって評価するということは、君が私を捨て去ろうとしているからだろうか?」というような内容。どうやらおじさんは愛人に捨てられそうになっているようで、おじさんは愛人が思想を変えたことに苦言を呈しているようだった。私の勝手な予想では、これまで愛人関係という反社会的な関係を続けてきた元愛人とおじさんだったが、なにかのきっかけで、元愛人エリカから別れを切り出した。その別れの切り出しに対して、おじさんがなにか最低な屁理屈をこねたのだろう。おそらく、愛人関係を肯定、賛美するような。そのおじさんの理屈に対して、元愛人が「最低な思想」と評価を下したものだから、おじさんとしては、「いやいや、これまで愛人関係を許容してお互い楽しんできたじゃないか。何をいまさらきれいごとをいっているのか?」と反発した。という流れなのかな。

私ごときにはわからない奥深い世界ですが、おじさんの立場は苦しいと言うか、切ない。理屈でいくら正当性を主張しても、もはや彼女との復縁はありえないのではないでしょうか。

おじさんは、そのような文章を打ちながら、どんな顔をしているのだろうと、私のスマホに反射したおじさんの顔を見やると、涼しい顔をしている。とても元愛人とよりを戻そうとネチネチやっている人には見えない。あるいは、おじさんにとっては、このやりとりも遊び感覚なのかもしれない。いろいろと超越してるのかもしれない。

電車内でスマホをいじるときは、誰が見ているかわからないから、気をつけよう。見られている前提で、スマホをいじろう、と思ったのだった。

そもそも均質な集団ではない

入管法の改正が決まった。

奴隷制度的と批判の受けることの多い技能実習制度を、就労系資格へと変質させるものなのか、はたまた奴隷期間の延長策となるのか。

詳細なルールづくりは、これからだが、所詮ルールはルールであり、どのように運用するかは、利用する国民の意識次第である。技術移転という国際貢献として始まった技能実習生が実際は安価な労働力を得る手段と成り下がったように。無論、すべての技能実習がそうではなく、なかにはきちんと実施しているところもあるだろう。

民泊のすったもんだもそうだが、結局は、それなりの罰則がないと、抜け道を探して、あるいは多少の軽い罰則を見込んだ上で、金儲けに走る人間というのは確実にいる。そういう人間とは異なる環境、進路で生きてきた制度を作る側の人間には想像のできない思考回路で動く人間というものは、確実に存在する。「なんでそういうことするの?」といったところで、永遠にわかりあえることはない。

今回の法改正の論点は、移民の是非やら悪しき制度の存置やら、難しい問題が多数ある。そして、根底には、政策を目的どおりに実施するためのルール作り、制度設計への信頼不足からくる不安、というものも無意識的にあるように思う。

 

グレート・リセット

連休に結婚式出席のため初の大阪へ。

LCCが結局経済的ということで初めて利用した。

思ったよりもボロいというか、内装の傷みがあった。

が、なんの問題もない。

成田ー関空間は1時間半くらいだったと思う。

関空に着き、昼だったので「エビフライあんかけナポリタン」を食す。

同道した後輩によれば「名古屋の名物じゃないすか」とのことだった。

なんば、という中心街と思われる場所へバスで1時間。

ややいかがわしいエリアのカプセルホテルにチェックイン。

受付は、クレオパトラのような韓国系の女性の方だった。

幅15センチほどの薄っすいロッカーに荷物をねじ込み、外出。

式まで時間があるので、道頓堀へ向かい、グリコのランナーと記念写真。

案外、清潔感がある街並み。馬場のほうが汚いのではないか。

そして、大量の外国人観光客。日本人は2割もいないのでは?と思うほどに。

そして、なるべく空いているたこ焼き屋たこ焼きを食べた。

とろみ具合が絶妙で美味しかった。

後、結婚式に出席。

結婚式もそれなりに数をこなすと、不動の心になるものだが、今回のはあまりにピュアでキラキラしていて、「そこまでやる?」という勢いがあり、ちょっと感動した。

覚めない夢に生きることができたら幸せなことだな、どうか覚めないで、と思った。

式後、串揚げ屋でどて焼やら大量の串を食す。繊細な衣で大変美味でした。

その後、夜の街を放浪。夜中になっても大勢の外国人観光客。

この賑わいは東京にはないのではないかと感じた。最近の東京の夜を知らないのでなんともいえないが。

カプセルホテルへ戻り、カプセルに入ると枕脇に「警戒」という謎の赤いスイッチがあった。どうやらこのスイッチを押すと、無断で誰かがカプセルに入ろうとしたときに照明がパッとつく仕組みらしい。ということは、無断で誰かが入ってくる可能性がある、ということである。共用の洗面所にはいちご柄のパンツを履いた体つきのいい男が延々と鏡に向かって身だしなみを整えている。ここがハッテンバなのだとしたら、彼らはスタンバイをしている、ということなのだろうと解釈し、あまり見ないようにした。

翌朝、何事もなく目を覚ました。あるいは何事かがあり、無意識下に記憶を押し込んだのかもしれないが外傷はない。よれよれと、浴場へ向かい、「案外、大阪に住んでみたら楽しいかもしれない」などと思いながら露天風呂に入り青空を仰いだ。そして、同道している後輩を起こし、朝の大阪の街へ出た。

朝食にうどんでも食おうかと店を探すがよくわからないので、ラーメン屋に入った。みるみる欧米系の観光客で埋め尽くされる店内。さして美味しくはなかった。隣の席の外国人は宇宙戦艦ヤマトのオープニングテーマをスマホで再生し始めた。外国語バージョンの。わざわざ周囲に聞こえるように再生するということは、かまってほしいのかな、とも思ったが、個人主義の欧米人からすれば聞きたいから聞いてるだけかもしれない、などと思いながら店を出た。

大阪に行ったなら蓬莱551の肉まんをおみやげに買うのが鉄板、みたいな話を何度か耳にした。後輩も同じらしく、蓬莱551へ行くことにした。スマホで調べつつ向かった。マックのとなりにある、ということでその方向をみるとマックがあった。そして、確かに「蓬莱」があった。ここか、ということでお土産用に肉まんを調達。店を出ると、マックを挟んで反対側に「蓬莱551」という店が!どうやら「蓬莱」と「蓬莱551」は異なるものらしい。詐欺、ともいえず、こちらのうっかりといえば、うっかり。しかたなく、551の方の肉まんも調達。ついでに肉まんを一個食う。皮が硬めで具がシンプル、というか私はものたりなさを感じた。後日食べた「蓬莱」の肉まんのほうがおいしかったと思うのは、ある種の負け惜しみなのかもしれない。

午後イチに出る飛行機に乗らねば、ということでバスターミナルへ向かう。バスを待つ間にお好み焼きを食おうということで、お好み焼き屋に入ったのだが、案外焼くのに時間がかかり、急遽テイクアウトにしてもらい、お好み焼きを片手にバスに走り込む。

関空のロビーでお好み焼を食らう。劇的にうまいというものではなかった。

そして成田へ帰りついた。

大阪滞在中の24時間で、エビフライあんかけナポリタン、たこ焼き、結婚式の食事、串揚げ、ラーメン、肉まん、お好み焼きを食べた。一日の食事量としてみたら、私としては多い。

そのお陰か、数日経って繊細な私の胃腸はブレイクダウンし、セブンのななチキがトリガーとなり、吐くわ下痢するわの体内大放出。二日間、固形物を口にできなかった。

そして、体重は念願の80キロを切った。

思わぬ形で願いは叶うものである。

考えること

考える、ということは一体なにか?

人が「ちょっと考えてみる」「もっとよく考えなさい」(よく言われる)などといったり、言われたりするとき、具体的にはどのような行為が「考える」なのか?

結論だけを出すことを、考えるとはいわないようだ。

結論に理由をつけるだけでも、不十分。

説得的に人に語れる状態になって、「考えた」となる。

結論と理由から成り立っていない、感想や感じていることを述べたり(叙情)、事実の羅列(叙事)は、「考えた」ということにはならない。(叙情なり、叙事を語るという行為自体の理由付けには考えるという行為があり得る。)

「ユーバーイーツを使ってみたら、案外便利だった。」

「朝6時に起きて7時10分に朝食を食べた」

この発言から、「はぁ、この人はよく考えてるわぁ」とは思わない。

 

では、結論と理由があればいいのか。

「新宿に行く。なぜなら、紀伊国屋に行きたいからだ。」

これを「考えた」とはいわない。

「予算をください。なぜなら新規顧客の施策実行に必要だからです」

これも「考えた」とはいわない。具体的に説明しろ、となる。

そして、具体的な施策を説明し、なぜその施策である必要があるのか、効果はどの程度か、などと話が進むにつれ、「考える」ことが必要になってくる。

どうやら「考える」という行為は、人を説得するための物語を作ること、といえそうだ。

しかし、人間は一人でも「考える」。

私もよく、一人で考え事をする。

そういうときは、「なんで、〇〇はこうなっているんだろう」「次は何をすべきだろう。」「△△の意味はなんだろう」というような内容であることが多い。

これは、自分自身に対して、説得的な、納得できる物語を作る営みであるといえる。

事実を事実のまま受け入れるのではなく、自分にとって腹落ちするように、言語化する、物語化する行為が、一人の場合の「考える」。

自分と他人を区分せず、人が自他に向けて、あることを説得、納得させるための表現を模索する営みが、「考える」である、ともいえる。

*表現を模索、としたのは、人は言語のみによっては完結しないと思うからである。

説得、納得を必要とする状況というのは、なにかしら重要な局面を迎えているときである。

「新宿に行く。なぜなら紀伊国屋に行くからだ。」

という文に考え(思考)があったとは評価できないのは、内容がどうでもいいからだ。

勝手にどうぞ、という話であり、誰かを説得、納得させる必要がないから、そもそも考えることを必要としない。

これが、例えば、その人が新宿にいくと、特殊なウイルスによってその人が死んでしまう可能性がある、というシリアスな状況にあるならば、「なぜそこまでして紀伊国屋に行きたいの?もっと慎重に考えなさい」となり、考えることが必要になる。

「考える」とは自他を説得、納得させるための準備。

 

では、考えれば、すべての問題は解決するのか。

考えるときに使う言語、知識、規範、ルール、価値観、考え方、論理的な枠組みは、その人間のオリジナルなものではない。所詮、既にあるものを無意識・意識的に使いまわしているにすぎない。

仮にその人の完全オリジナルななにかがあったとしても、それを他人と共有するための言葉やそれ以外のツールは存在しないはずである。これまでに他人と共有されたことのない何かを表現するには、新しい言語その他の表現方法を発明するよりほかない。それはアートの領域であり、一般人にはあまり関係がない。

ということは、考える、ということは、考えるその人の知識、経験を総動員して、結論と理由を説得的に語る、ということになる。

個人の知識、経験が完全無欠、ということは現実的ではない。

ある程度のところで、人は説得されるし、納得もする。

どこまで考えればいいかは、説得や納得の対象次第である。

そして、説得や納得は、真理とは一致しない。だから詐欺がまかり通る。

 

考えればすべての問題は解決するのか、と問いを立てたが、広すぎた。

考えれば、自分自身の問題は解決するのか。

この場合、考えることによって自分自身を説得、納得させられるなら解決する。

自分自身を説得、納得させられないような問題に直面したときは、考えることは無意味になる。

しかしそもそも、完全ではない自分の知識経験で、説得、納得できるような問題は大した問題ではないともいえる。また、完全ではない自分の知識経験では、なんともわからない問題については、考える必要がないともいえる。

「だいたい考えてみたけど、最終的にはなんともいえない。」

となったら、それ以上考える必要はないだろう。そして、それでいいと思う。

あとは、実験するしかない。

 

 

狂う人々。

日常生活を送る上でのルールブックは存在しない。

法律はルールを明文化しているが、ほとんどの人は実際に読むことはないだろう。

そして法律にかかれていることがすべてではないし、むしろ、書かれていないことがほとんどだ。

一体人は、なにをあたりまえと思って暮らしているのだろうか。

さも、自分は普通、常識的な人間だという顔で歩いている人が多いが、その実、少しずつ狂っている。

そのように感じるこの頃である。

 

あるショッピングセンターでエレベーターにのった。

そこは外国人観光客も訪れるような場所だった。

けっこう混んでいて、エレベーター内はひとでぎゅうぎゅう。

奥にベビーカーを押している男がいる。

入口付近にはアジア系の外国人のおばちゃん数人。

エレベーターのドアが開くと、そのベビーカーを押す男は、入口付近のアジア系のおばちゃんを、背後からベビーカーでぐいぐい押し始めた。

「いたい!いたい!」というようなことを外国語で言うおばちゃん。

ベビーカーを押す30半ばくらいの日本人の男は、意に介することなく無表情でグイグイ押し続け、脇にのいたおばちゃんに目もくれず、前進していった・・。

一瞬のできごとだったが、私ははじめ目にした光景を信じることができなかった。

「あんた、なにやってんだ」と注意することはできなかった。

その男は、一見するとそのへんにいるサラリーマンだし、傍らにいる妻らしき人物もいたって普通である。一見して、狂っているようにはみえない。しかし、その男、そして何事もないかのように傍らにいるその男の妻も、間違いなく、狂っている。

表面的にはごく普通な人間の革を被っているが、その中身は想像がつかない冷たさ、あるいは虚無。

そういう家庭の子供と、自分の子どもが同じ学校、同じクラスになる可能性があるということが、非常に耐え難いことである。

 

先日、区民まつりに行った。ある出店で、子供向けに無料で小さなチョコを配っていた。直径1cmほどの小さなチョコなのだが、大概の子どもはもらえるだけでラッキーとでもいうように、よろこんでいる。

ある家族連れの子どもが、そのチョコをもらった。

「なにこれ、信じらんない。見て。」

と親に言う。

その母は、

「うわー、ひどい。」

と、その小ささに文句を言う。

タダでものをもらっておいて、いちゃもんをつける。そして、それを恥とも思わない。

確実に狂っているのだが、親子間でその狂気は再生産され、受け継がれていく。

その家族も、一見するとごくごく普通である。

貧しそうにも、裕福層にも見えない、ほんとうにどこでにでもいるような、普通な感じである。

 

法律で罰せられるような、飛び抜けた罪を犯すわけではないが、狂っている人間がうようよいいる。

私自身、間違いなく狂っているところはあると思う。

無自覚のうちに人に不愉快な思いをさせていることだろう。

人間社会というものは、こうした混沌としたものなのだろう。

一皮むけば狂気。

他者とつながるために狂気を隠して、「普通」な振る舞いを心がける。

あなたも私も、狂ってる。それは当たり前のことだから、指摘するのはやめましょう、「普通」の共通の舞台でお話しましょう。

というのが、日常生活を送るためのルールかもしれない。

今を基準とする必要はない

今後人類は、身体能力、知的能力を補完、拡張する段階に入るとされ、AIによる管理社会がディストピア的に語られることが多い。

しかし、現時点ですでに多くの人間は、一部の人間に管理され、奴隷的に生きている。

管理者が人間からAIに置き換わることのインパクトは果たしてどれほどなのか。

管理している側の人間にとっては大きな問題かもしれないが、大多数の既に管理されていることに甘んじている、あるいはその認識すらない人にとっては、関係のない話かもしれない。むしろ、合理的な管理により、よりよい生活が送れる可能性があるのではないだろうか。

 

AIの登場により消滅する職業、がよく語られる。自分自身、消滅候補の業種についており、既に事態は進行中であると感じる。消滅しても仕方がないし、無駄な中間的職業がなくなって、社会にとっては良いことだとすら思う。困るのは、仕事がなくなること。代わりに他の仕事を発掘しなければならないこと。消滅するであろう職業にどっぷり浸かって、年齢的、能力的にも今更他のことなんてできない!という人もいる。おそらく、多い。それゆえ、AIは脅威であり、自らの職業をなんとしても守ろうという動きになるだろう。しかし、生産性の革命が後退したことは知る限りないから、その抵抗も無駄に終わる。かつて存在し、今は消滅した職業のように、今存在し、将来は消滅する職業は、その運命から逃れることはできない。

そのため、今から職業というか生活をするための収入を確保する方法を考えておかなければならない。そして、できることから実験していく必要がある。